『金田一少年の事件簿』ノベルス 〜電脳山荘殺人事件〜



         プロローグ 

       
 夏の終わりの、穏やかな朝だった。
 静かな裏通りに面した、大きな窓のある喫茶店に、髪を短く刈った大柄な青年が訪れた。
 青年は、コーヒーの香ばしい匂いがたちこめる店内をさっと見回すと、外から良く見える窓際の席を選んで腰をおろした。
「いらっしゃいませ」
 アルバイトらしい若い男が、薄っぺらいメニューをテーブルに置く。青年はホットコーヒーを頼んだ。
 八つしかない喫茶店のテーブルは、それでも半分が空いている。客は、青年を入れて五人しかいない。
 就職活動中の学生だろうか、モーニングサービスのトーストをちぎりながらあくせくと口に運ぶ若いネクタイ姿の男と、朝刊をテーブルいっぱいに広げている七十過ぎの老人、子供を幼稚園にでも送った帰りなのか、化粧の厚い三十代のよくしゃべる女ふたり。
 それと、人待ち顔の青年……。
 青年は、少女を待っていた。
 少女は、自殺志願者だった。彼女が青年の家に電話をかけてきたのは、昨日の夜である。受話器の奥で少女は声を震わせ、「死にたい」とつぶやいた。
 見も知らぬ少女からの電話だ。イタズラかもしれないとも思った。しかし、相手は自殺をほのめかしているのだ。放って置くわけにもいかず、青年は自殺を思い止まらせようと努力した。
 青年の説得が実ったのか、少女はやがて、自殺をやめてもいいと言いはじめた。
──その代わり、一度会って。会って、あたしの話を聞いて──
 少女はそう言って、喫茶店の名前と場所を告げ、そこで明日の朝八時半に待っていて欲しいと一方的に約束を取り付けて電話を切った。
 青年は翌朝、少女との約束どおりに、彼女が指定した町外れの小さな喫茶店に足を運んだ。
 青年は、運ばれてきたコーヒーをすすりながら思った。
 少女は、きっと来ないだろう。
 来なければ来ないで、たんなる気まぐれな悪戯だったか、昨夜の説得で彼女が自殺を思い止まってくれたのだと思おう。
 そしてもし本当に来たなら──。
 自分の力で、なんとしても自殺だけはさせない。
 青年には、胸の奥につかえてとれない罪の意識があった。それを認めたくないという気持ちと、認める潔さ。彼は交互にわきあがるその裏腹な思いと格闘しながら、半年の間もがいてきたのだ。
 あの事件があってから、ずっと──。
 青年は、半年前までは都内の私立高校の教師だった。
 真面目に勤めているつもりでいた。生徒の間で、厳しすぎるという評判をもらっていたことは確かである。しかし、生徒から距離をおき、ことなかれ主義を貫いている同僚のようには、自分はできなかった。
 生徒のためを思って、厳しく接する。それが彼の信念だった。結果として生徒から嫌われたとしても、彼は頑固にその姿勢を崩さなかった。
 しかし結局は彼のその信念が、彼の職を奪うことになってしまったのだ。
 事件のきっかけは、女子生徒の売春だった。補導された女子生徒は、彼が学校に連れ帰っても、ふてくされた態度を変えずにいた。他人に迷惑をかけたわけではない、というのが彼女の言い分だった。
 青年は、女子生徒を平手打ちにした。
 彼女は、あっと叫んで床に倒れた。遠巻きに見ていた他の生徒たちも、思わず息をのむような危ない倒れ方だった。
 青年は本音をぶつけて、女子生徒に売春をやめるよう言い聞かせた。その生徒が彼の言葉に心を動かされたかどうかはわからない。ただ、彼女は泣いて、ともかくその場では反省の言葉を口にして帰宅した。
 事件はそのあとに起こった。
 家に帰った女子生徒が、その夜に倒れ昏睡状態に陥り、三日後に死亡したのである。
 解剖の結果、死因は血管性の持病からくる脳出血とわかった。直前に受けた“体罰”との因果関係は立証できず、青年は罪に問われなかった。
 しかし、そのまま教師を続けることは、もちろんできようはずもない。生徒や父兄の悪意に満ちた目から逃れるように、彼は学校を辞めていった。
 それから少しして、一部のマスコミに青年の“体罰”と学校側の隠蔽工作を糾弾する記事が載った。
 しかし、政界につながりを持つ学校側が圧力でもかけたのか、すぐにこの事件は騒がれなくなり、そのことが、青年自身の罪の意識をますます深めていった。
 青年は職にもつかず、ろくに外にも出ない生活を続けた。
 後悔に眠れず、悪夢に目覚める毎日──。酒に身を浸し、得体のしれない宗教にすがろうとも考えた。
 そして、半年……。
 ようやく、吹っ切れたのだ。
 昨日の夜の、少女からの電話で。
 自分の罪を認めよう。認めたうえで、償うためになにかをしよう。
 今日は、その第一歩だ。
 時計を見る。約束の八時半を、三分ほど過ぎている。
 大きな窓から、外に目を移した。
 さきほど青年のテーブルにコーヒーを運んできた喫茶店のアルバイトが、歩道に書かれた卑猥な落書きを、洗剤とデッキブラシで汗だくになりながら落としている。
 店の真正面にある格子ガラスの赤い電話ボックスでは、モーニングサービスを食べ終えて店を出た先ほどのリクルート学生が、青い大きな封筒を抱えて、どこかに電話をかけている。
 すぐそばの街路樹の下に、山積みにされた不燃ゴミ
 ゴミ収集車が来たら一緒に運ばれてしまいそうな、古びた自転車。
 前の道路は、車もほとんど通らない。
 街路樹が織りなす光陰が、そよそよと目の奥をくすぐる。              
 トゥルルル……。
 電話が鳴った。
 音のした方をふりかえる。カウンターの奥で、マスターがコードレス電話を拾い上げた。
「はい……はい、お待ちください」
 マスターは受話器を持ったままカウンターを出ると、客たちをさっと見渡し、青年の方に足を進めた。
「あのー、お客さま──」
 青年は名前を呼ばれ、素っ頓狂な声で返事をすると、もぎとるように受話器を受け取った。
 昨夜の少女だった。


(プロローグ後半につづく)

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