『金田一少年の事件簿』小説版 幽霊客船殺人事件 〜プロローグ〜

    「幽霊客船殺人事件」


        プロローグ



 それは、確かに帆船だった。
 しかし、深い霧のはざまから、ぼうっと浮かびあがるように姿を現したその船は、蜃気楼か、さもなくば伝説に聞く幽霊船のように船員たちには見えた。
 一八七二年十二月のことである。
 最初の寄港地ジブラルタルに向かって、大西洋上を航行していた帆船デイ・グラティア号は、深い霧の中で奇妙な様子の船に出くわした。
 その帆船は、帆の大部分がボロ布のようにたれさがっていて、酒に酔ったようにふらふらと左右に向きを変えながら航行を続けていたのである。
 不審に思ったグラティア号のモアハウス船長は、操舵手に命じた。
「速度をあげろ。あの船に追いつくんだ」
 グラティア号が追いはじめると、奇妙な帆船はそれを待っていたかのように速度を落とした。
 グラティア号が信号弾を打ち上げても返答はない。近づいて双眼鏡をのぞいたが、甲板に船員の気配はなかった。いや、それどころか操舵輪を操る者さえいないように見えた。
「船長、なにか異変でもあって救助を待っているのかもしれません。わたしが行ってみます」
 一等航海士のオリバー・デボーが、そう言って探索を志願した。
「よし、ボートを出そう」
 船長の命令でオリバーは二人の船員をともない、もやの這う寒々とした海にボートを漕ぎだした。
 三人は船の反対側にボートを回し、船腹に書かれている船名を見上げた。


『マリー・セレスト号』


 波と霧でしっとりと濡れた木製の船体に、英語でそう書かれていた。
「……乗り込むぞ」
 オリバー・デボーは、気味悪がって反対する船員一人をボートに残し、もう一名を連れてセレスト号の甲板によじのぼった。
「こ、これはいったい……?」
 二人は、船上のあまりにも奇怪な様子に、言葉をなくした。
 操舵輪は操る者もなく、壊れた風車(かざぐるま)のように気ままに回り続けている。たれさがった帆がバタバタと飛び立つ鳥のような音をたてているのに、それを整えようとする甲板員の姿さえなかった。
 船内を探索した二人は、さらに異様な光景に出くわした。
 キッチンも食堂も乗組員の部屋も、すべてが整然とし、騒動のあとなどどこにもない。にもかかわらず、誰ひとり船員の姿が見当たらないのだ。
 船員たちの衣類は、きれいに洗濯してたたまれていた。キッチンには作りかけの朝食がそのまま残っている。食卓のうえに、パンや乾し肉をのせた皿が並び、ナプキンや食器まで整えられていた。
 今にも、そこのドアを開けて日に焼けた船員たちがにぎやかに現れ、待ちかねたように朝食をとりはじめそうなほど、それはありふれた日常の光景だった。
「ひ、引き返しましょう、デボー航海士」
 迷信深い船員が、胸で十字を切りながらそう言った。
「まだ船長室が残ってる。誰かいるかも知れない。いや、きっといるはずだ。いなければならないのだ」
 恐怖を打ち消そうとする気持ちが、デボーを勇敢にした。
 熱病に冒されたように震える船員をむりやり従わせて、デボーは船長室のドアを開けさせた。
「……!」
 そこに、船長の姿はなかった。
 ただ、朝食のために用意されたであろう皿と食器、その上に残されたパンとゆで卵だけが、主人のいなくなった食卓に、なにかのメッセージのように並んでいた。
「きっと、嵐かなにかで混乱におちいって、全員が脱出したんですよ。そうにきまっている!」
 むきになって主張する船員に、デボーは食卓の上のカップを指して言った。
「いや、ちがう。だったらこのカップに残っていたらしいコーヒーは、あたりにこぼれているはずだし、そこの薬ビンにしても倒れていなくてはなるまい。嵐なんぞなかった。この船から姿を消す直前まで、船長はここで優雅に朝食をとっていたのだ」
 ふとベッド脇の机に目をやったデボーは、その上に本のようなものが開いたままになっていることに気づいた。
 それは船長が書き残した、マリー・セレスト号の航海日誌だった。
 日誌には、さしたる異変は書かれておらず、航海が平穏に続けられていたことを物語っている。
 そして、航海日誌の記述は十日前の、十一月二十五日の朝で終わっていた。
「信じられない……」
 この無人の船は十日間ものあいだ、優れた船長(キャプテン)が舵をとっていたかのように、きちんと航路を守って航海を続けてきたのだ。
「幽霊が舵をとっていたとでもいうのか?」
 オリバーは、背筋が凍りつく思いがした。

 腰が抜けたように座り込んで、神の名をつぶやき続ける船員をひきずるようにして、オリバーは甲板にあがった。
 すぐ近くにデイ・グラティア号の姿をみとめた時は、さしものオリバーもほっと肩をなでおろした。ボートで待つ船員に合図を送り、船縁(ふなべり)の手すりを乗り越えようとした時、彼はふと甲板を振り返った。人の気配を感じたような気がしたのだ。
 しかし、そこに“目に見える人間の姿”はなかった。
 深い霧のたちこめる“無人”の甲板を見渡して、オリバーはつぶやいた。


「幽霊船長(ゴースト・キャプテン)……」